#191970

言葉はミッドナイトブルーの文字から

無駄

特に厳しいとき、風呂場で泣くことがある。風呂場で泣くと、後処理が楽だ。いつもそう思う。今日は寝室でも泣いているけれど。

最近の私は、目から涙が勝手に出てくるときは悔しかったりする気持ちが源流のような気がする。

横になっていても、腕が重たくてしんどい。足もむくんでいる。ああ、疲れたな。今日は歩きすぎたかな。

どうでもいいなら、どうでもいいと言ってほしい。はっきり意思表示してほしい。私がこの間に首をつって死んでもいいと思ってる?私がどんなふうにして死に損なったか、話すべきなのか。

お腹が空いている。でも欲しくない。何も食べたくない。泣いてるときは大体そうだ。

こんな自分で、自分に申し訳ない。うまく生きられない。こんな小さなことで?

肯定したい。自分を好きになりたい。ただ返事を待つだけなのをやめたい。自分から動きたいのに。

 

足のむくみがひどいので寝るとき用の着圧の靴下を履いたら、アレルギーの湿疹が出ている部分が汗ばんで痒くなってきた。

もうだめだなあ。今日はだめだ。

寝る前の薬、飲んで寝るか。

 

 

近況

もう二ヶ月以上もブログを書いていなかったことに驚く。梅雨空というよりゲリラ豪雨が続いておりましたが、なんとか生きております。

最近の私といえば、昔から書き溜めて個人サイトで公開していたショートショートや一話完結の短編を、個人サイトの運営終了を受けて「カクヨム」というサイトに移行して執筆活動を始めました。メインは今まで書いてきた短編ですが、新しく書けるプラットフォームが欲しいなと思っていたので、この機会にやろう!と思って。

ペンネームは、短歌と同じく「雪平蒼」という名前です。カクヨムの作家ページのURLを貼りつけておきますね。

https://kakuyomu.jp/users/tayu_tau

ちなみに一番最近更新した作品は、「短編集 僕たちは靴をなくした」の、38話目「After a rainy day.」です。雨の日に聞きたいプレイリストを作ったのだけど、それと少しだけリンクしているのでプレイリストのURLも貼っておきます。

https://open.spotify.com/playlist/2Lr2niwA2bPhOSEJHL7Kcu?si=zkS7W-e7SaWHf-e9JsJVsA&dl_branch=1

久しぶりに自分の書いた文章を読んでいたら思い出す景色や風があり、なんだか新鮮でした。ああ、あの頃はこんなにみずみずしい文章が書けていたのか…と思って結構落ち込んだけどね。

 

毎日毎日同じことの繰り返しで嫌になってきた。何かしらの変化がないと毎日を生きるのは難しいね。

特に6月の終わり頃からここ何週間か、心の中にあるコンパスがぐるぐると回っている感覚がある。好きなものが何だったのかわからなかったり、行きたいところがどこなのかわからない。これは非常にまずい症状で、これが出ると大体めちゃくちゃ浪費してしまう。服でも鞄でもコスメでもなんでも。増えてしまう。まずい。

何かを変えるためというわけでもなく、寝る前の楽しみが欲しいな〜と思って毎日一話ずつODDTAXIを観始めた。面白くて一度に二話ぐらい観たいけど、我慢して寝る。音楽が良すぎる!何から何まで。ストーリーを全部観終わったらサウンドトラックも聴こうかな〜と思っているところ。

私はどんな作品でものめり込むタイプなので、動物が主人公なのはありがたい。なんかカラクリがあるらしいというのは見聞きしたけど、まだ追いついていないのでモヤモヤしながら今日も一話観て寝る。今日は第8話かな。

 

背中を丸くして頭を垂れる。姿勢改善を始めたのはこれを変えたいからだ。空き時間にメルカリばっかり見てるのやめたい。明日は少しでも楽しいことがありますように。

 

雨と結びついた記憶のしぶとさ

数日前、好きな人がコンバースのハイカットを買ったということを聞いて、自分も欲しくなりサイズ感を調べていた。黒いチャックテイラーが欲しいな。デニムに合わせたいな。久しぶりに履きたいな。買うとなったら、履くのは何年振りだろうか?

湿っぽい季節になると決まって思い出す嫌な記憶たち。サイズの合わない革靴で7000歩近く歩いて右足の親指の爪に血豆を作ったこと。白い部屋の黒い遮光カーテン。透明な涙、月を模した明かり。ベランダの向こうのしんとした景色。身体とは?という問い。何もかもが最低で、最悪で、どうしようもなく忘れられない。忘れようとすればするほど、愛おしくて仕方なくなる。全部はっきりと思い出せる。記憶に固執するのは私の悪いところだな。死んだら楽になるかな。私は、悪役以下の強欲な人間だから、後ろめたいことも含めて背負っていかないといけないんだよな。そういう運命なんだな。簡単に絶命したくなるのは、きっとあの歳で死に損なったからだろう。

公園を歩いた。広い公園を歩くのは久しぶりだった。この街は今日梅雨入りしたらしいと聞く。

雨が降ったあとの木々の葉っぱの匂い、じめっとした土につく足跡、雨粒で濡れた木のベンチ、水溜りに映るビル街。解体工事のために調整中と書かれた布がかぶさった信号機。ビルが建っては壊されて。炎から始まった人類がこんな技術を手に入れるまでにいくらかかった?

今日はだめな日だ。こんな無意味なことばかり考えてしまう。

いつも行く喫茶店の席がやっとついたてで仕切られていて、逆に今更すぎて何かがあったのかと想像した。人混みを歩くのが久しぶりすぎて疲れた。だからこんなことばかり考えている。泣きそうになりながら電車を降りた。帰り道に考え事をして反省会を始めてしまうのは嫌な癖だ。

私はいつまでこの街を歩くのにビクビクしないといけないんだろう。ばったり知り合いと会ってキャーキャーと世間話をしてまた別れて歩いていくような、学生時代から変わらないたくさんの思い出が詰まったこの街のことが、本当に本当に嫌いだ。どんなに好きな喫茶店があっても、どんなに好きな人と歩いていても、安いサンダルを履いている日に嫌いな誰かと出会ってしまう、この街の商店街が大っ嫌いだ。

こんな小さな街で私は育って、恋をして、友達を失って、絶望して、「この街にまだあの子は住んでいるのかな」なんて思ったりする。来るたび、似た人とすれ違うたびに、毎回思う。怖くてたまらなくなる。この街を通り過ぎるときもそう思う。そしてその子にばったり出会っても、合わせる顔がないことにも落胆する。こんなくだらないことをずっと引きずっている自分に呆然として、周りの人たちは同じような壁をきっと乗り越えているに違いないと思い込んでまた心が萎む。そんなことの繰り返しなのかな、生きることなんて。

フェンスの向こうに見える街。潮風、波の音、ぬるい風。また雨が降ってきた。傘を持っていない私たちは小雨の中を踊るように歩いた。あの日の景色はいつも雨だ。

私は何を間違ったのかな。何がいけなかったのかな。何が気に入らなかったのかな。何が気に障ったのかな。何がだめだったのかな。ただの気まぐれだったのかな。何をどう考えても、発しても、返事は返ってこないのに。どうして?

交錯する記憶、バラバラになったパズルみたいな思い出たちが心の引き出しから溢れてきてどうしようもない。抑え込もうとした手のひらからこぼれ落ちていく記憶ほど自由なものはない。思い出そうとしたときには思い出せないのに、匂いや似た景色や空の色で、出来事がフラッシュバックする。そうだった、私はこんなとき当時の感情の色まで思い出せるほど記憶力が良かったのだった。覚えることよりも忘れることのほうが得意だと話したことはいつか忘れてほしいな。それは勉強のことについてだけ当てはまる。

今日はハズレだ。いつもよりもハズレだ。大ハズレだ。ああ、たくさん歩いたから疲れたな。どこも店は開いていないし、外で酒も飲めないし、遠い場所へ旅行もできない。多分ライブにも行けない。フェスもないから、新しいサングラスもバケットハットもいらない。自由がない。今の私に必要なのは、どこまでも歩ける新しい靴だけだ。

 

 

the cabsという季節

16歳になる前の季節、私は学校に行きたくないとき、家のリビングにあるWindowsのパソコンから毎日YouTubeでミュージックビデオばかり見ていた。

そんなときに出会ったのがthe cabsの「二月の兵隊」というミュージックビデオだった。

当時、高校生にだった私は世界に対して不安で、ひたすらに人間が怖くて、自分以外の人間になんか関わるものかと思っていた。私は自分の世界に閉じこもっていたし、自分の描いた絵しか信じていなかった。どうしようもなかった。悩み続けていた自分に一つの解を手渡してくれたのが彼らの音楽だったように今では思う。

今まで轟音の美しさを知らなかった。手数が多くてやかましいドラム、低いところで鳴る骨太のベース、切なさを含んだギター。平らな歌声、反対にある叫び。何もかもが私に必要だった。

学校の帰り道に一人でタワーレコードに行ってアルバムを手にしたときの感動が忘れられない。当時はシンプルでちょっと怖いアルバムアートだなあと思っていた。

高橋國光という人間の紡いだ言葉が私に与えた影響は計り知れない。当時個人サイトで細々と書いていた短編小説たちは、彼の存在がなかったらきっと生まれていない。cabsは解散してしまったけれど、私はこの人の言葉が今も大好きだ。いつかさまざまな活動をまとめて詩集を出してほしいと思うくらい。

 

今日、メンタルが無茶苦茶になって疲弊して最悪の状態になって、久しぶりに「一番はじめの出来事」というアルバムを一から聞いた。ああ、私の解は、このアルバムの中に大事にしまわれていたんだ、と思った。なんだか涙が出た。ウォークマンでこのアルバムを聞きながら駅のホームで何台も電車を見過ごしていたことをふと思い出した。そのあとも学校には行けなかったけど、音楽がそばにいてくれたのはありがたかった。10年も経つと、聞く環境も生活環境も世界情勢も変わってしまうけれど、今は気軽にSpotifyで聞けるのが幸せだ。

生きてこそ、生きてこそだから、と自分に言い聞かせる。

 

 

下書きを編集、備忘録

投稿できなかった下書きたちを読んでいた。季節は冬から春へと変わりつつあり、着る服も変わっている。冬物の洗濯をしないとな、と思いながらも思うだけで日々は過ぎていく。

 

 

 

1月のいつか。昼間の空と夕暮れの間の色は何色なのだろうと思いながら電車の窓から遠い空を見ていた。普通電車は移動には適してないのかもしれないけれど、ゆっくり景色が見えるから好きだ。国道の向こう側には海がある。冬の寒々しい海も良い。今日の海は向こう岸までよく見える。風もあまり強くないみたいだな。ミルク色をした波の潮騒が薄く聞こえる。日曜日だからか出ている船は少ない。17時30分。だんだん日が長くなってきた。

 

良い映画を観た後のなんとも表現しづらい充足感が好きだ。誰かと観た後ならなおさらだ。

「良い映画だったね」と彼が言う。私はいつも二人で映画を観たとき彼の感想を待ってから、自分の感想を話すことにしている。何かを伺っているのではなく、純粋に自分の好きな人が同じ作品を観てどんな感想を抱くのかが気になる。「静かで良い映画だった」と私が続けると、彼は「穏やかな映画は安心して見られる」と言った。その通りだなと思って、なんだか私は彼をぎゅっと抱きしめたくなった。ここは劇場だから静かにしないと、と我に返り、平静を保ちながら外へ繋がっているエレベーターに乗った。

私たちは大体「何もしない」をする。カフェや喫茶店に入っても、会話ですごく盛り上がることはあまりないかもしれない。その日何を話したか帰り道では忘れていたりするほど、適当なことを話している。それでも楽しい。二人でいられるのは幸せだ。充分すぎる。

 

幸せが目に見えるなら、どんな色をしているだろう。時には自分の好きな色かもしれないし、時には見たこともないような色かもしれない。

幸せが目に見える形なら、どんな形をしているだろう。時には赤ワインのボトルみたいかもしれないし、時にはぬいぐるみみたいかもしれない。不確定なものだからこそ、幸せについて考えるとき、いろいろな物に当てはめて感情を流し込めるのかもしれない。人間に生まれてよかったことは、こういう楽しみ方があることだな。

その日は冬らしい、少し白を足した水色の空が広がっていて、そのせいかとても寒くて、新しくおろしたブーツが靴擦れして足が痛かった。帰り道、脱いで歩くか?と思ったくらいだった。

 

 

 

2月のいつか、また別の晴れた日。いつも聞いているラジオ番組で映画のチケットが当たったので、また映画館へ来ていた。この日見る映画は好きな漫画家の作品が原作だ。サスペンスやミステリーはあまり得意ではないけれど、楽しんで見られたらいいな。そんな風に思いながら電車に揺られていた。

 

電車に乗っているとき、Spotifyで前日に聞いていたodolの「飾りすぎていた」ソングRadioがなかなかに良かったことを思い出して聞いてみることにした。5年くらい前に聞いていた好きな曲が流れてきて嬉しくなる。よくこんな良い曲たちのことを忘れていたな、私は…と思うと少し申し訳ない気持ちになった。

私の5年前の音楽環境といえば、まだメインはウォークマンだった気がする。それも高校生になるかならないかくらいの時期に買ってもらった、タッチパネルがまだ新しかった頃のピンク色のウォークマン。今もまだ充電すれば動くことは動くのだけど、現役だったときと比べると電池が劣化しているようで動ける時間がものすごく短くなった。全く動かないよりかはまあいいのだけど。

そんなことを思い出していたら、SoundCloudのlike tracksが気になったので見てみることにした。昔よく聞いていた曲がたくさんある。大好きだった人に会うために待ち合わせの改札の前で聞いていた曲ももちろんそのままあった。「sakanaction cool remix」というダサいタイトルがつけられたプレイリストを覗くと、当時の自分が見えるようでなんとなく嬉しかった。

久しぶりにサカナクションの「ルーキー」が聴きたくなった。ライブでのライティングが大好きな曲。ライブ、行きたいなあ。

 

都会へ来たのに、私たちはいつもと同じことをしている。

昼ごはんを軽くいただいてから映画を見た。眠くなるかもしれないと心配していたけれど、内容的にうとうとするような穏やかな話ではなかったのでそれはそれでよかった。温度が高くて何も起こらない平和な映画も好きだけど、たまにピリッとした作品も見たくなる。

見終わった後いつも通り少しずつ感想を言い合って、「似た雰囲気ならもっとすごいスプラッター映画があるよ」なんて冗談を聞いた。正月から映画館に足を運ぶような映画好きが、私みたいなライトな映画ファンのリクエストした作品をよく一緒に見に行ってくれるよなあ、と毎回思う。感謝しなければね。

 

少し長い帰り道、いつもの駅から電車に乗る。たまたま快速が来ていたので飛び乗った。今日の夕暮れはカクテルのテキーラサンライズみたいで綺麗だな。日が長くなってきた。多分前回の映画の日よりも、きっと。17時48分。まだ家は遠い。

今夜見る夢はスプラッターかもしれないな、と思いながらみるみるうちに暗くなっていく空を見ていた。電車の窓ガラスに自分が映って、なんだか恥ずかしくなる。景色を見ているような、自分を見ているような。

イヤホンで耳を塞いでいると、景色を見ていなければ駅がわからなくなる。夜になると余計だ。

 

 

 

そしてまた別の3月の雨の日。私たちはアニメーション作品の最終作を観ていた。終劇していくのを、155分間、見守っていた。

雨が小刻みに降る帰り道、携帯電話が小さく震えた。「一緒にこの作品を観られると思ってなかったから、嬉しかった」とメッセージに綴られていた。胸に携帯電話を当てて、そっと微笑んでしまった。このアニメーション作品は何年も続いているお話だったから、ちゃんと作品に追いついた上で、劇場で一緒に終わっていくのを見れたのがよかったな。

続けて何日間かでまとめて作品を追って観たこともあって没入感は強かった。グロテスクな場面も多く感じたしそんなシーンを思い出して晩ご飯が食べられない夜もあった。劇場版2作目を観た直後の晩ご飯にエルボーマカロニのサラダが出てきて、おいおいちょっとこれは食べられへんよ…と思いながら一口、二口、といただいていたのはなかなかに自分でも面白かった。(バラバラになった赤い機体を本部が集めるシーンで映りこむ機体のあばら骨がエルボーマカロニに似ててね。)なんとも自分は良いところでも悪いところでも感性の強い人間だなあと思って、なんだかちょっとホッとした。私の感性、まだ生きとるなあ、と思った。

 

他愛ないことでも、こうして書き起こして残しておくと、あとになって少しは思い出せるから、文章を書くのは好きだ。やめられない。やめるべきではないな。季節の移り変わりを経て、人生は進んでいく。

はてなブログやnote、音楽活動など何かしらのURLが溜まってきたのでまとめページを作りたいところだなあ、と思うだけ思いながら良い方法がなくて足が止まる。まあこんなもんでもいいのかな。

 

最近、前向きになることによって人生は別に暗いものでもないな、と思えるようになってきた。肉体活動だけが素晴らしいのではなくて、精神活動も大切だよな、という話。心と身体は繋がっている。そして身体は一人一つずつしかない。大事にしないとね。大事にしてくださいね。

 

2日前、家の階段で転けて両脚のスネに青あざを作ってしまった。それが今もまだずっと痛い。風呂に入ったとき、さすってみるけどやっぱりちょっと膨らんでいる。転けてスネに青あざを作るだけでこれだけの反応なのだから、死ぬとなったら身体中めちゃくちゃ痛いのだろうなと想像してしまう。

今まであれだけ死にたい死にたいと言って生きてきたやつがこんなことを言っているのはアホかもしれないけれど、今更死んでも誰も何も面白くないし、私は今を生きます。走ります。たまに歩いて、振り向いて、また前を向く。そんな感じの繰り返しで、いいよね。

引き続き、生きます。頑張る。

 

 

 

 

 

生誕祭をゆく

その時々に出会う人や物を全力で愛せば、周りには花が咲くと思っている節がある。太陽がぽかぽかとあたたかいお花畑な頭の中で、音楽だけが真実を歌ってくれるときもある。

 

そんなことを考えながら電車に乗った、晴れた日のこと。恋人とGoToトラベルを利用した旅を計画するためにいつもの街に集まった。この日は二人とも誕生日が近かったということで、メニューの多い紅茶屋さんへ。通うには少しお高めだけれど、特別なシーンには良いところ。併設されたお店でシーズンブレンドの茶葉を買って帰ろうかと思ったが、家にはめちゃくちゃたくさん茶葉があることを思い出してやめる。

 

近くへ来ていたので、今年出来たという古本屋さんへ向かう。思っていたより結構歩くことになった。

昔、大学生時代に学科の客員教授をやっていた先生がマスターを務めているらしいというカフェがあって、そのカフェをだいぶ過ぎたところに例の古本屋さんはあった。私の頭の中の地図では先生のカフェはほとんど果てだったので、まだ行くんか?と思ったくらいだ。先生、元気にしてるかなあ。そんなことを考えながら角を曲がると、「古本、買います」と書かれた小さな看板が道端にあった。SNSなどで店先の写真を見ていたから、すぐにここがそうなのだとわかった。

店の入り口には何年か前のPOPEYEなどが何冊かだけ積み上げられており、ドアは全開にしてあって入りやすかった。入ると少し本の匂いと新築の家みたいな木の匂いがする。そしてほのかにコーヒー豆を砕く匂い。

棚の空いているスペースに「価格は本の最後のページの右上に貼ってあります。」と小さく張り紙がしてあり、気になる本を見てみるとタイトルと価格が書かれた付箋がページの角に貼ってあった。書かれていた文字はやわらかい雰囲気で、女性が書いたのだろうとなんとなく思った。レジを打ってくれたのも、ショートヘアが素敵な女性だったからだ。

 

私は結局、又吉直樹の「東京百景」と「わたしたちが良い時を過ごしていると」という片桐ユズルの詩集を買った。

又吉さんの名前は知っていたし彼の書く文章は自分に近いような気がして読むたび勝手に親近感を感じている。細かい描写と生々しい感覚が和紙のような古本のような生成り色をしている文章。好きだ。せきしろさんと共著で出版していた「まさかジープで来るとは」も、今も大事に部屋の本棚に飾られている。個人的に東京へ行く予定があり、自分の歩く景色に誰かの考えることを重ねたいと思ったのもこのエッセイを連れて帰ろうと思った決め手だった。

片桐ユズルさんの詩集はタイトルからピンと来るものがあって購入。なんだか自分のことを言ってくれているみたいだと思った。中身を見てみようと本を開けると、栞解説文なるものが挟まっていた。古本なのに、通りで高いわけだ。詩集が1000円、エッセイは500円。多分エッセイは2013年に書かれた物だからこの価格なのだと推測した。二冊で1500円。状態もとても良く、まだまだ私の元で活躍してくれそうだ。ありがとう、また来ます。

 

再びガヤガヤとした商店街を抜けてメイク道具の買い出しもした。切らしているものが多くて壮大な買い物になってしまったが、少しでも付き合ってくれる人がいるだけ有難い。

用があり久しぶりにオタク街も歩いたが、思っていたよりも賑わっていてびっくりした。日曜日だったからかな。若い子たちが鬼滅の刃のガチャガチャを回している姿を何度も見た。鬼滅の刃、一ミリもわからないから良さはまだわからないけれどきっと素敵なお話なんだろう、となんとなく賑わう店の様子を見て思う。そんなところにあった?というようなガチャガチャも手作りマスクの柄も、どれも時代を象徴しているなあなどとぼんやり思ったりもする。

何年かぶりに完成されて服も着ているドールが多数展示されている店へ入ったが、雰囲気が変わらなかったのでちょっと安心した。幼い頃、ドールでお洋服を着せ替えして遊ぶのは好きだったから大人になっても好きな人がいる、ということは全然理解できるし、なんならドールたちの表情や瞳の色、着ているお洋服を見るためにこの店に月1くらいで来ている時代もあった。当時、別に特にハマることもなかったけれど、ドールたちはどんな気持ちでここに佇んでいるのだろうか、などと考える時間が結構好きだった。高校生くらいの頃かな。私はどちらかと言うと今でもやわらかくてふわふわしているぬいぐるみのほうが好きだけど。

帰り道にふと、私は結局自分の気持ちを乗せることのできる媒体にしか興味がないのだろうか、と思って落ち込む。途中で昼間に飲んだポットティーの影響で胃が痛くなってきて、それどころではなくなる。

 

一週間くらい前に、毎年恒例のケーキイベントが訪れた。私も25歳になり、やっと大人への仲間入りを果たしたような気分になる。実際はまだまだガキのままなのだけれどね。

数年前まで自分の誕生日なんて忌々しくて大嫌いだった。自分が生まれた日なんてお祝いされて何が楽しいんやと思っていた。それが今になっては嬉しくて嬉しくて仕方がない。なんなんやろねこの心境の変化は。一年一年、何かを積み重ねているのかしらね。

各方面からいろんな人にお祝いされて本当に本当に嬉しかった。生活の糧にしながら生きていきます。皆さま、いつもありがとうございます。頑張ります。

 

少し遠くの旅の計画や楽しいことや自分の好きな人たちが幸せな姿、そんなことを考えながら寝ます。今日も瞑想をやるぞ。

感謝を忘れずに生きていくということをする。私がしたいからするのだ。人を愛せば、自分も変わる。少しずつでもいいから、変容し続けることが今の目標だ。

これは私の人生だ。そう思えるのが、心の底から幸せだ。

 

 

 

 

 

 

無題

あまりにも心がつらく、考えなければならないことも多く、ただ消えてしまいたいと思う。いろいろ考えてしまうし人に見せるもんでもないなと思ってインスタグラムのストーリーズに投稿する気力も失い、ここで書いています。許してほしい。

いきなりコアな話をする癖をやめたい。どうせ本人に伝えなければ解決しないのに、誰かに相談するのもやめたい。気分の波に飲まれて人に連絡してしまうのも。それも終わった関係の人が相手だったりすると、また今後死にたくなる回数が増えるだけだ。

帰ってきた家族によってつけられたテレビから聞こえてくる人の声がやかましくて耳障りで気持ち悪い。今日たまたま思いつきで録画していたテレビドラマを2話分見てしまって、テレビはもうお腹いっぱいな感じ。

2日前に塗ったネイルはもう剥げてきていて悲しくなる。瞑想のアプリをインストールしてみたけど、なんだか純粋に楽しめない。楽しめないというか、集中ができなくてつらい。昨晩やろうとイントロダクションを流してみたけど、なんだか心が落ち着かなくてすぐに消してしまった。何事も納得がいかないと進めないという自分の性質が鬱陶しくて腹が立つ。こういうとき何をすればいいのか未だにわからない。不安だったり神経が立って眠れなかったり、眠れても夢見が悪くて目が覚めてから死にたくなったり、忙しすぎるからやめてほしい。

ただ、泣きたくて仕方なくて、つらくて、でも泣けなくて、考えなければならないことが山積みで、どうにもできなくて、死にたい。こんなとき死んだら何もかも解決するような気がしてくるから不思議だ。死の魔力というのはこういうところにあったりする。

どこへ行っても何もできない。どうせとか今更とかそんな言葉ばかりが頭の中を先行して出てくる。消えてしまえたら楽なのにな。

早く前みたいに少しでも働きたいけど、主治医にあまり無理をするなとも言われるし、それでも欲しい物はたくさんあるし、好きな服やアイテムの情報収集をやめることはできない。そんな中でも好きな物が変わってきていることに気付いて悲しかったりするのに、忙しいね。

できることをコツコツやるのが一番なんだろうけど、それが人生で一番難しいことなのよ、と文句を言いながら短歌の下書き欄を見る。下書きがどんどん消費されていて、もう新たな次の一首は詠めないような気がしてくる。

できること、か。今の私にできることって、なんだろう?日々の生活が厳しい。

1000文字を超えたのでもうやめにする。何を言っても状況が変わることはない。捉え方が変わればいいのに。前向きになりたい。